上の台遺跡の石器 市指定文化財4 市重宝
上の台遺跡の石器 東大和市指定文化財4 市重宝
出土地 清水二丁目~三丁目
指 定 昭和55年4月1日
説 明 丸ノミ形石斧と大型槍先形尖頭器は先土器時代最終末から縄文時代最初期の資料として貴重である。
清水二丁目から三丁目の広範囲にわたる上の台遺跡から発見された次の石器が市の重宝に指定されています。
丸ノミ形石斧 柄を付けて木を伐ったか、穴を開けたか、使い方はいろいろ想像されます。
全長19㌢ 巾5.5㌢
大型槍先形尖頭器 柄を付けて槍として狩りに使ったと想定されます。
全長17.5㌢ 巾4.4㌢
この石器を出土した上ノ台遺跡は、ほぼ図のような位置に各時代の特徴ある遺跡が並びます。
①旧石器・先土器時代(約12000年前)
②縄文時代中期(約4500年前)
③平安時代(約1000年前)
それぞれの遺跡から石器が発見され、丸ノミ型石斧と槍先形尖頭器が代表として東大和市の文化財として市重宝に指定されています。
・丸ノミ型石斧は12000年前の時代のものと考えられています(『東大和市史資料編』3p107)。
・大型槍先形尖頭器は旧石器時代から縄文時代に移り変わる時期(上ノ台遺跡p7)とされます。
この二つの石器がセットとなって発見される遺跡は、関東地方では数少なく、調査報告書『上ノ台遺跡』は次のように記します。
「中部地方から東の地域に点々と存在し、その源はシベリヤやカムチャッカなど、北方アジァ大陸にたどりうるものとされている。
関東地方でも大形槍先形尖頭器の発見される遺跡は、先に示した東大和市内の2例(奈良橋の砂野、八幡谷ッ遺跡)のほかにもかなり多く知られているが、丸ノミ形石斧の出土例となると、管見にふれた例だけであるが、埼玉県に3例、神奈川県に2例、茨城県に2例、それに東京都では今回の上ノ台遺跡の1例と、合計8例をかぞえるにすぎない。」(『上ノ台遺跡』1978発行 p8)
これらが、市重宝の指定の背景となっているようです。また、上ノ台遺跡は多様で、遺跡の総括して
上ノ台遺跡で明らかになった遺物や、住居跡などの遺構を見直してみると、
・丸ノミ形石斧や槍先形尖頭器が最も古い約1万2000年前に出現し、
・次に現れたのが約4500年前にあたる縄文時代中期の敷石住居跡、
・そして約1000年前の平安時代にも竪穴住居での暮らしがあったことがわかっている。
それぞれ間が途切れてはいるが、全体で見れば一万年以上の長い期間、人々の暮らしの舞台であったことを示している。それは、当時の人々にとって、この場所が暮らしやすい場所だったと考えることもできる。」
とします。(『東大和市史資料編』3p108)
これらから、上ノ台遺跡の石器は市重宝に指定された対象だけでなく、多種、多数、多様な時期わたる石器が考えられます。例えば、東大和市郷土博物館には上ノ台遺跡の出土品としてナイフ型石器が展示されています。今回の案内は丸ノミ形石斧、槍先形尖頭器に限定しましたが、今後、新たな発見と研究が進み、さらなる指定も考えられます。
東大和市郷土博物館石器時代の展示 ナイフ型石器 (撮影、発表の許可を得ています)
クリックで大
現地は大部分が宅地に変わり、遺跡を直接目にすることが出来ないのが、本当に残念です。
縄文中期、平安時代初期については上ノ台遺跡にまとめました。
(2019.03.21.記 文責・安島喜一)
上ノ台遺跡
市指定文化財
これは東大和市内では他にみることが出来ません。『東大和市史資料編3』では次のようにまとめています。
「それぞれ間が途切れてはいるが、全体で見れば一万年以上の長い期間、人々の暮らしの舞台であったことを示している。それは、当時の人々にとって、この場所が暮らしやすい場所だったと考えることもできる。(『東大和市史資料編3』p108)
以下、それぞれの概要を記します。
上ノ台遺跡は今後解明が待たれることの多い遺跡です。『東大和市史資料編3』は、次のようにまとめています。
「一九八六年の調査で特筆すべき点は、縄文時代中期の敷石(しきいし)住居跡が発見されたことだ。残念ながら道路工事により三分の二程は失われてしまっていたが、柄鏡(えかがみ)形の住居の中央の炉と、その周りに敷きつめられた扁平な石が検出された。
住居内からは、縄文時代中期の末ごろの土器や、石棒という石器の破片なども出土している。特に石棒は、破片をつなぎ合わせて復元すると直径一五センチメートル、長さも五〇センチメートル近くになる大きなもので、日常生活で使うものではなく、子孫繁栄など信仰の対象となるものだったと考えられる。
縄文時代の住居跡は残念ながらこの一軒だけしか見つかっていないが、市内では他に例のない敷石住居跡という形態や、大形の石棒の存在から考えて、この住居跡が遺跡内で特別な役割を持っていたと考えられるだろう。
上ノ台遺跡で明らかになった遺物や、住居跡などの遺構を見直してみると、
・丸ノミ形石斧や槍先形尖頭器が最も古い約1万11000年前に出現し、
・次に現れたのが約四五〇〇年前にあたる縄文時代中期の敷石住居跡、
・そして約1000年前の平安時代にも竪穴住居での暮らしがあったことがわかっている。
それぞれ間が途切れてはいるが、全体で見れば一万年以上の長い期間、人々の暮らしの舞台であったことを示している。それは、当時の人々にとって、この場所が暮らしやすい場所だったと考えることもできる。」(p108)